兵庫県下で、最初に少林寺拳法の灯がともされたのは、尼崎道院である。
この尼崎道院の歩みは、初代道院長・梶原道全(カジハラ・ドウゼン)の苦難の歴史でもある。
■少林寺拳法との出会い~入門
1951年(昭和26年)初夏、善通寺警察予備軍(現自衛隊)に相撲場が新設され、その土俵開きとして少林寺拳法の公開演武がおこなわれた。
この演武を見ていたのが、当時、同予備軍に勤務していた梶原だった。
相撲や柔道とも違う少林寺拳法の技に魅せられ、開祖の「正直者がばかを見ない世の中をつくりたい」との呼びかけに感動し、入門を決意した。
しかし、有段者の紹介がなければ入門できないとあって、隊内で紹介者を探し求め、半年後ようやく入門の許可がおりたのは、同年11月5日の入門、本部32期生である。
1952年、梶原は、伊丹部隊への転勤に際して開祖にあいさつに行った折、その場で初段を許されている。
勤務先の伊丹部隊には、兄弟子が1人いたため引き続き稽古をすることができたが、まもなくその拳士も転勤となった。
その時の「少林寺拳法を続けたい」という思いが、梶原の道院設立への一歩を踏み出させたことになる。
同年8月、同予備隊を満期除隊し、56年3月に帰山し、再び修行に取り組んだ。
■道院長として
約3ヶ月の修行の後、同年5月には除隊地・伊丹市に近い尼崎市で道院を設立した。
これが尼崎道院のスタートである。
以来30余年、20人以上の道院長と支部長を輩出した歴史と伝統を誇る道院だが、その歩みは決して平穏なものではなかった。
当時は、少林寺拳法の知名度が低く拳士集めには苦労した。
入門者募集の折込み広告を出したところ、開祖は「宣伝するな。人は寄る時には寄る」と、厳しく梶原を諭したという。
3年間で入門者はわずか30人という状況で、道場も当初は、幼稚園を借りての稽古だった。
その後梶原は、龍谷大学、桃山学院大学、京都外国語各大学の少林寺拳法部の監督、兵庫県少林寺拳法連盟理事長を務め、仕事も満足にできないほど多忙な指導者生活を続けた。