梶原道全 大範士を偲んで


初代道院長 梶原道全(旧名 菊夫)

本部相談役・中央審判委員・本部考試委員・指導員を務めた


【経歴】

昭和元年10月22日 父 梶原与市・母 キミエの三男(10人兄弟)として、徳島県美馬郡半田町に生まれる。

 

・ 昭和18年3月~昭和20年3月   

旧満鉄大連鉄道勤務


・昭和20年4月~昭和20年8月   

旧海軍予科連


・昭和25年8月~昭和27年8月   

旧警察予備隊勤務


・昭和26年11月5日        

入門(32期生)


・昭和31年5月25日        

兵庫県で最初の尼崎道院設立


・昭和35年4月           

現兵庫県少林寺拳法連盟の前身である兵庫県連合会結成に伴い、初代理事長に就任。


・昭和36年             

龍谷大学少林寺拳法部設立(初代主将 杉本勝昭氏)。

梶原道全に改名


・昭和55年2月24日        

病気により道院長を辞任。以後、龍谷大学と本部を中心に後進の指導に精励。


・平成元年1月15日         

日本武道協会 武道功労賞を受賞。


・平成2年4月15日         

尼崎市スポーツ功労賞を受賞


・平成5年1月10年         

大範士九段位允可

 

・平成11年6月11日午前2時41分 

肺癌のため逝去 享年72歳

<少林寺拳法と梶原道全大範士>

梶原道全大範士九段が初めて「少林寺拳法」とめぐりあうのは昭和26年初夏のころであった。

当時勤務していた善通寺警察予備隊に新設された相撲場の「土俵開き」で、少林寺拳法の公開演武が行われたのである。

 

当時行われた相撲や多少の経験もある柔道とも違う「技」の魅力もさることながら、

師範の「私たちは正直者がばかを見ない世の中を作りたい。


そのために正しいことを正しいと言える若者が必要だ」との呼びかけが何よりも心に残った。

「正直者が馬鹿を見ない世の中」。

そんな夢のような話は初めて聞いた。

 

そして、この言葉が梶原大範士のその後の生き方の支柱となり続ける。

入門式は同年11月5日、32期生であった。

この日から梶原拳士の一週間に10日(?)道場に通う生活が始まった。

 

一日も欠かさず、土曜日は午後と夜、日曜日は午前、午後と夜、食事は部隊に帰って摂り、また通った。

演武を見ただけではわからなかったが、小兵な人間でも覚えたら使えそうな技であることを、体で感じられるようにもなった。


温かみのある師範の人柄には人を惹きつけるものがあったし、時に応じて行われる法話は聞き流すことができぬ深さがあった。


必死で小さな手帳に書き留め、部隊へ帰ってから毛布をかぶり懐中電灯をつけて、ノートに写しかえる作業が続いた。 

「残心について」「当身の五要素」などという技術的なこともあれば、

「金剛禅について」「仏心一如」「不立文字」など、教義についてのものも多く、最後は決まって国を憂い、

日本人はどうあるべきかといった話で結ばれた。


そんな新鮮な日々も長くは続かなかった。


入門後三か月もたたない昭和27年1月、伊丹の部隊への転勤命令がだされた。


当時、善通寺部隊からの入門者はあとを絶たぬほどの盛況で、

この人たちの「転勤」は結果的に全国各地に金剛禅の種子を芽生えるという効果をもたらした。


梶原拳士の場合もその一例である。


「頑張れよ」と師範からは初段を許されて本部をあとにするが、

“好きな少林寺拳法を続けること”がその後の人生設計の中心に置かれる。


就職先を変えることなく「拳法ができる」ことが条件であった。


実は、尼崎道院開設もやむにやまれぬ事情からであった。


伊丹の部隊を退職した梶原拳士はさっそく本山に帰り、再修行に取り組む。

昭和31年3月のことであった。

上中上の段蹴りにしろ、前身一足を一突き、一蹴りと数えての千本突き、千本蹴りも日課の一つであった。


足腰の鍛練を中心にすえたもので、いつしか慣れてきた。


師範からの手ほどきも数えるほどしかなく、「技」は自得、つまり人は誰でも自省自修の工夫が大切で、

自分で修行するほか方法がないとこを思い知らされる毎日であった。

 

 

道場を離れての師範は特にやさしかった。

町内にある寺に間借していた彼にも時たま声がかかり、差し向いでモツ鍋をつつくこともあった。


師範は、箸で鍋の中を器用に回し、「お前からよく見えるところは、よく煮込んであるからうまいぞ」

 この先達としてというより親にも勝る心づかいには、師の心の深さと温かさがにじみでており、どんな教えよりも尊く感じた。


後年20名に余る道院長・支部長を輩出する「尼崎道院」も、決して平坦な道のりではなかった。


昭和35年、大学にも支部が設立され、本山合宿も始まる。

それから毎年のように春と夏、30日、40日と帰山し、その指導を手伝った。

できるとき、できる形での奉仕を心がけたのである。

 

 

昭和36年、梶原菊夫拳士は、それまでの武芸の門人としての認識を改め、門信徒として再出発することを心に誓った。

名も開祖から頂いた「道全」と改めた。 


「ダーマによって生かされているという喜び」を見出すという教えと修行に、ほんとうに取り組んでみようと思ったのである。

「ダーマ」を宇宙の実相であり大光明であるとし、その分霊をもつ自己の存在を説いてくれた師。


表現こそ違え、自分が聞いた親鸞や空海の教えに少しも遜色はない。


『教範』に出てくる「自彊不息」(易経)ということばも気になり調べてみた。

自ら強(彊)めて息まぬこととある。

自然と人間を一体と捉え、自ら動きだす、そういう力を人間は本来持っているというのである(象白天行健君子以自彊不息)。


 


技の壁にも何度か会ったが、そのたびに超えてきた。

その中に思いがけない自分自身の発見もあった。

感動もあった。

 

人と比べるものではない。 

自分自身の内面から湧き上がる喜びである。

 

しかし、その一を教えてくれたのは師であった。

 

 「わが師は偉大だ」の思いとともに、金剛禅信仰は深まっていった。


 「この十年、金剛禅がどこかへ行ってしまったのではないか。教義といっても試験のための学科になっており、行ずる者は少ない。開祖も運動体として同志の獲得をねらって、社団法人の組織もつくってみた。しかし『技』のおもしろさ故に技ばかりに目が行くこの現実。まさに本末転倒です」。 


「また、宗教法人の運営の基本は奉仕なのです。信者による奉仕で教団が成り立つ。それをつなぐものが信仰というものです。宗教心がなくなると金剛禅はつぶれます。そうしないためにはどうするか。それぞれが“ダーマの分霊”であることを信じることでしょう。そこに宗教性が成り立つ。宇宙の大生命であり無始無終の大光明である存在、それが何故信じられないのか。教えが宙に浮いている。教えがあって、信じる人が行じて、その功徳が現実に現れる。そう信じて形から入るのが先。信じて疑わないそんな人々によって、宗教教団も支えられておるんです。まず信仰が第一歩です。拳法をやっておったら金剛禅だという考え方でおるのと違うかな」

 

 

 「原点に帰れ」とはよく開祖の言われたことばである。


金剛禅運動の原点とは何か。それはダーマによって生かされているという喜びを、いかに表現するかということに尽きる。


それを自分自身で模索し、そしてやること。


他人の批判や、ただ考えることは簡単。

実際に行動に移さなければ意味はない。


その大本を示したのが「道訓」なのである。

ことばはやさしいが実践することは難しい。

まず人の道が天から生じていると考え、ひたすら努力すること。


そして自ら進んで困難に身を呈し、苦しいことや恐ろしいことに体を張って生き抜く。

そんな時、自分自身に言い聞かせ、誓わなければならないことに限りなどないはず。


ここに金剛禅の正依の経典を「礼拝詞」と「道訓」とする所以があると言い切る。 

<1991年12月県連黒帯研修会にて>

教範をよく読めば、基本を丁寧に書いてある所があるのです。

押小手、逆小手、送小手は、開祖は教範に克明に書いておられる。


これをよく読めばどの技も運歩もきれいになる。

それをやっていないからダメなのです。


何回も言うようですが、基本はそんなに遠い所に有るのではないのです。


よく見て、よく聞いて、分らなければ食いついても教えてもらう、それが面授面受なのです。

面授面受を行うためには、問法修学が必要で、ここに人間関係が生まれてくるのです。 


「おい、今日の科目を教えてくれ、センコー」ではいかんですよね。


例えば前回休んだ者は、必ず先輩の所へ行って「先輩、僕は前回の参座に休んだんですけど、今日は少し早く来ましたので前回の技を教えてもらえませんか。今日は残ってでも教えてもらえませんか。」と云うことを躾ておれば前回やったことが伝わっていく。


始めに問法修学が行われる状況を作っていかなければならないのです。


昔の本部では、それをやらせるために、遅れてきた者は一人で祭壇の前で鎮魂をやってから、先輩や今は亡くなられた開祖の所へ行って、「ただ今よりお願いします。」と言うのです。


そうすると「おう梶原か、よく来たな。義若の所へ行って教えて貰え。」。こういう風景だったのです。


こうしないと縁が切れてしまう。

君たちの所でも試してみなさいよ。


そうすると、「ああよかったな、今日は遅れて来たけど教えてもらった。」と云うことになりますよ。  

そして結局、先生も一度は手を取って教えなければならない状況ができてくる。


先生に手を取ってもらって教えて貰ったと云うことは、この面授面受の形になるのですね。


門下生が、拳士が多くいると云うことに溺れないで欲しい。

 

 師と云うものに仕えたことがない者が門下生を持つと、自分がやったことのないことを色々と門下生に要求するから、

一般的に良い門下生が育たない。


小さい頃、少年拳士の頃から師礼を尽くさせるように持って行かなければならない。

師礼とは、盆暮れの付け届けをしなさいと云う意味ではない。


心に伝わるものを育てて欲しい。

【弔辞(森道基先生)】

平成11年6月11日梶原道全先生の訃報に接し、こんなにも早く逝去されるとは驚と共に愕然とした思いでありました。

梶原道全先生は昭和31年5月25日、尼崎道院を開設されたのであります。


兵庫県で少林寺拳法の第一歩が標されたのであります。


そのころ私は本部で修行中でありましたが、

昭和32年9月30日に道院を開設いたしたく開祖にお許しを得て神戸の地に来たのであります。


これも梶原先生のご教示に依るところ大でありました。以来、今日まで度々ご叱責を受けた事もありご指導を戴きました。 

開祖は梶原先生に良い名を授けられました。


人物を見る先見の明がおありになり道全と名付けられました。


梶原先生は見事に道を全うされたのであります。


心身共に特に技の事に関しては少しも妥協を許さない楷書の如きもので正しく少林寺の生き字引でありました。

大変な宝物を失った気持ちで一杯であります。

 

ましてや死を目前にして6月5日少林寺の将来を案じられ、ベッドで3日掛けて上を向いたままの状態で宗由貴会長に手紙を出しておられたのであります。

 

とても並みの人間に出来得るものではありません。

 

葬式も少林寺式にと遺言に書いておられ、一つの形式を残された荘巌な儀式となりました。

 

梶原道全先生のご戒名は皆さんとご相談の結果、嵩少院道全法師となられました。

 

ご遺族、ご門下道院長のご要請により、葬儀委員長を引き受ける事となり大変気を使いましたが、梶原道全先生に私自身ご供養が出来たと思っております。

 

通夜式は300人、告別式は500人、弔電は450通をいずれも越す盛大なものとなりました。

ある意味では道全先生は大往生をされました。

まさしく人は死して名を残すと申しますが、見事に少林寺から消える事無く名を残されたのであります。

先達を亡くされた兵庫の諸拳士は、先生の遺徳を偲び金剛禅運動に励み精進努力して参ります。


安らかにお休み下さいと申し上げたいのですが、どうか天国からお見守りください。

合掌

 

兵庫県少林寺拳法連盟顧問 森 道基 

(平成11年兵庫県大会パンフレット掲載文より抜粋)

 

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梶原道全から三代目道院長 三角進弥

長い歴史を受け継ぎながら現在も仲間と切磋琢磨して稽古に励んでいます。

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